社宅の一室で起こった、少年による母子殺害事件。
あまりにも残虐な犯行を18歳の少年が行ったこと、裁判を受けての弁護士同士の揉め事や実名報道などについても話題となりました。
裁判での加害者の供述も異端であり、記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。
今回は、そんな光市母子殺害事件について調査していこうと思います。
光市母子殺害事件の概要とは?未成年が起こした凶悪事件の全貌!
光市母子殺害事件はいつ起きたのか?当時話題になっていたこととは
1999年4月14日の、14時20分から15時頃にかけて、事件は起こりました。
当時は、未成年による犯罪は罪が軽くなることが多く、実名報道もありませんでした。
これには賛否両論あったようですが。
しかし今から20年前は実名報道などは決して行われていませんでした。
未成年だからといって、残虐な罪を犯した者が正当な裁きを受けないのは納得がいきません。
光市母子殺害事件の起きた現場はどこ?
山口県光市室積沖田の新日本製鐵光製鐵所の社宅アパートで、事件は発生しました。ちなみに、現在はこのアパートは存在しません。
社宅アパートの一室での犯行、被害者はどんなに怖い思いをしたことでしょう。
光市母子殺害事件の概要とは?未成年が起こした凶悪事件の全貌!
1999年4月14日の14時20分頃、加害者の少年は社宅アパート7棟の被害者宅へ排水検査を装い訪れました。
14時30分頃に被害者女性を強姦しようと企てて、背中から抱きついたそうです。
15時頃、被害者の生後11ヶ月の長女が激しく泣き続けたため、犯行の発覚を恐れるとともに、泣き止まないことに激昂。
また犯行の発覚を遅らせるため、被害者の長女の遺体を押し入れの天袋に投げ入れ、被害者女性の遺体を押し入れの下段に隠しました。
そして、被害者女性の6,000円ほどが入った財布を窃盗しました。
事件の発覚
帰宅した被害者女性の夫が妻の遺体を発見して、110番通報を受けて駆けつけた光警察署の署員が、押し入れの上の段で長女の遺体を発見しました。
事件から4日後の4月18日、殺人容疑の被疑者として加害者の少年が逮捕されました。
逮捕された犯人のその後とは
8月11日の初公判では、加害者は起訴事実を認めました。
12月22日に加害者に死刑判決が出ますが、2000年3月22日には無期懲役判決が言い渡されます。
無期懲役判決が出た後、加害者は友人に
などと書いた手紙を出しています。広島高等検察庁は、これを被告人に反省が見られない証拠として提出しています。
加害者に対する裁判の判決とは
2006年6月20日、判決を広島高裁に差し戻されます。2007年5月24日には、差し戻し後の第1回公判が開かれました。
9月18日からの公判では被告人質問において、
「認めていたわけではなく、主張が受け入れてもらえなかっただけ」
として、加害者は殺意と強姦目的を否定しました。
その内容として、
「(乳児を殺そうとしたのではなく)泣き止ますために首に蝶々結びしただけ」
「乳児を押し入れに入れたのはドラえもんに助けてもらおうと思ったから」
「死後に姦淫したのは小説「魔界転生」に復活の儀式と書いてあったから」
と語ったといいます。
20日の公判では遺族の意見陳述で、極刑を求められました。
2008年4月22日、差し戻し控訴審の判決公判が行われ、広島高裁は死刑判決を言い渡しました。2012年2月20日、最高裁判所は加害者の上告を棄却して、死刑判決が確定することとなりました。
死後にまで遺体を傷付けられるなんて、遺族からしたら許すことができません。また、差し戻しの裁判での発言は、果たして精神年齢が未熟だったことによる本心なのか、それとも自身が助かるための言い訳だったのか、謎が残ります。
光市母子殺害事件の犯人は誰?加害者の未成年の実名や顔も調査!
光市母子殺害事件の犯人は誰?犯行動機や理由も確認!
加害者は、当時18歳の少年です。
高校卒業後に水道配管設備会社に就職しましたが、入社10日目にして「水道管の戸別点検」を口実に自身が住む団地内の各家庭を訪問しました。
加害者の、被害者女性に対する欲情は募っていったといいます。
事件当日、加害者は
「強姦によってでも性行為をしてみたい」
という気持ちになっていた一方、
「そのようなことが本当にできるのだろうか」
と半信半疑に思いつつもアパートの10棟から7棟にかけ戸別訪問をしましたが、その行動を誰からも怪しまれなかったことから、
と自信を深めていき、犯行に至ったといいます。
加害者とその父親から目を付けられていたと思うと、被害者の恐怖を感じ辛いです。
光市母子殺害事件の犯人の実名や顔とは?
加害者の本名は福田孝行です。顔写真も挙がっています。加害者は拘置所で支援者の大月純子と養子縁組をしたため、大月孝行に変わっています。
拘置所にいる間の養子縁組はよくあることのようですが、こんなにも残虐な犯行をした加害者を支援するなんて、被害者のことをどう思っているのか気になるところです。
光市母子殺害事件の犯人の生い立ちや経歴とは?
加害者は事件当時、実父・継母・弟2人・祖母と6人暮らしでした。
父親は給料のほとんどを酒とギャンブルに注ぎ込み、お金がなくなると母方の実家に借金をし、また母親と被害者は毎日父親の暴力に耐えながら生活していました。
その際に父親は、加害者に母親を地面に下ろすように命じ、失禁して汚れていた体を拭かせるなどさせました。
その後、父親は若いフィリピン女性と再婚して、本事件の約3ヶ月前には異母弟が生まれていました。
事件後に加害者の精神鑑定が行われましたが、当時18歳ながら精神年齢は母親が自殺した12歳の時点で止まっており、いかに母親の死が加害者の精神に多大なダメージを与えていたかが浮き彫りになりました。
父親から身体的、精神的な暴力を受けていた加害者のことを思うと、精神的に成長することができなかったことに対する可哀想な気持ちも湧きます。
光市母子殺害事件の犯人の父親が注目された訳とは?
加害者の父親と亡き母親はお見合いで知り合いましたが、結婚前に父親が母親を強姦したそうで、その時に加害者を妊娠させました。
父親は加害者が事件を起こした時に責任を問われましたが、
と言い逃れをしていたそうです。
子どもの責任は、親は背負うものです。ましてや未成年なら尚更です。加害者への育て方を反省するのではなく加害者を責めるなんて、親として許されないと思います。
光市母子殺害事件の被害者は誰?顔や実名から遺族の今に迫る
光市母子殺害事件の被害者は誰?顔や実名から経歴も調査!
被害者女性は、新日本製鐵光製鐵所に勤める本村洋さんの妻の弥生さんです。被害者の長女は夕夏さんです。
事件当時、弥生さんは夕夏ちゃんを抱っこしながらテレビを見ていたといいます。どこにでもある、普通な幸せな家庭が壊されるなんて、あってはならないことです。
光市母子殺害事件の被害者の遺族は現在どうしてる?
裁判に臨んだ被害者の夫は、「日本において犯罪被害者の権利が何一つ守られていない」という現実に直面し、自身と同じく妻を殺害された経験を持つ元日本弁護士連合副会長の岡村勲さんとともに「犯罪被害者の会(現・全国犯罪被害者の会)」を設立しました。
本村さんの長い戦いを傍で支えてきたのは、同じ会社の同僚で再婚した7歳年上の妻でした。
被害者の妻と娘のことを忘れることは決してないと思いますが、本村さんが幸せであることが、被害者の幸せであると思います。
光市母子殺害事件の犯人の現在!その後の様子や今の姿とは?
光市母子殺害事件の犯人の現在とは?事件後からの様子
死刑判決が出た翌日、面会にて「僕は人に対して殺傷行為をやった人間です。しかも、大人だけでなく、赤ちゃんまで殺傷してしまった人間です。そのことだけで、この一事だけで、死に値します」と語ったそうです。
2010年3月の面会時には、被害者の誕生日の翌日だったそうで、
「昨日、弥生さんの誕生日だったんです。こちらで祈らせてもらいました」
と語っていました。加害者は拘置所内に場を設けてもらい、被害者にお祈りを捧げることが多いといいます。
「死刑判決を受けて、色々なことが見え始めました。自分の視点ができたように思います。自分の限りある命をどうするか、ということを僕は考えています」と語りました。
残虐な犯行や裁判での異端な発言を見ると、加害者への憎しみは増すばかりですが、加害者は18歳の少年であり、私たちが知らない一面も持ち合わせていることを改めて実感しました。
その後光市母子殺害事件に関するドラマ、『なぜ君は絶望と闘えたのか』も放送されていました。
光市母子殺害事件を追っていた記者の著書に基づいた作品ですが、少年法についてや遺族の無念な想いなどが描かれています。
気になる方はU-NEXTで見れます。
光市母子殺害事件の犯人の父親の現在とは?
加害者の父親は被害者の夫と同じ職場でありましたが、社会の視線に耐えかねて退職をしました。
その後も2度職場を変えているそうです。
また、メニエール病を患い片耳が不自由になっています。こんな運命になった加害者が憎いとまで言っていたそうです。
今はどこかで元気に暮らしているようです。
加害者の父親は確かに可哀想ですが、自分のことは棚に上げて加害者だけを責めるのは間違っていると思います。
加害者の弟は、今は普通に暮らしていることを願います。
光市母子殺害事件のその後で何か変わったことはある?
弁護士の橋下徹が本事件弁護団に対して、「あの弁護団に対してもし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたい」と視聴者に呼びかけました。
これにより、約7,558通の懲戒請求書が弁護士会に殺到したそうです。
これに反発した光市母子殺害事件弁護団のうち、足立修一・今枝仁ら4人は2007年9月に橋下に損害賠償を求める訴えを広島地裁に起こしました。
2009年10月、「福田君を殺して何になる― 光市母子殺害事件の陥穽 ―」が出版されました。
この本の著者である増田美智子は「福田孝行に了解を取って実名を公表した」と主張しています。
しかし、加害者の弁護団側は「福田孝行から話を聞いていない」と双方の主張が交錯しており、加害者側は「プライバシー権、肖像権の侵害」を理由として出版差し止めと約1300万円の損害賠償を求める裁判を起こしました。
今回は弁護団が奮闘したこともありますが、橋下さんも同じ弁護士であるなら、弁護士を敵に回して自分は関係ないと対応するのはどうかと思います。
また、加害者の実名記載については難しい問題です。加害者が死刑になったこととは関係なく、残虐な犯行をしておいて実名が隠されるのは違うと思います。
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