今から50年以上も前に起きた冤罪事件。
茨城で起きた事件ですが、なぜ未解決となってしまったのか。
そしてなぜ冤罪が起きてしまったのか。
その事件についてひも解いていきます。
布川事件の概要!現場の場所やいつ起きたのかも確認
布川事件は1967年茨城県で起きた強盗殺人事件です。
物証がないにも関わらず犯人だと有罪判決を受けた人物は、無罪を訴え続け事件から44年後冤罪だと判明した事件です。
事件はいつ起きた?時代背景なども確認
1967年(昭和42年)の事件でした。
1967年はモントリオールオリンピック開催、初の建国記念日。オールナイトニッポンのラジオ番組放送開始、餃子の王将1号店が京都にオープン、東急百貨店や小田急百貨店がオープンした年でした。
事件現場はどこ?場所や住所も確認
事件現場は茨城県北相馬郡利根町布川です。
この場所は遺体で見つかった男性(62)の自宅でした。
布川事件の概要!犯行内容や事件の流れとは
1967年8月30日大工をしていた一人暮らしの男性(62)の自宅へ近所の方が仕事を依頼しようと男性を訪ねたところ、大工の男性が殺害されていたのを発見しました。
大工をしていたこの男性は個人的に金貸しもしていました。
家の中は物色された痕跡がありましたが何が取られたのか分からなかったそうです。
唯一、男性が普段使っていた白い財布が無いと言われました。
室内を荒らされた形跡はあっても何が盗まれたか分からないという事が不思議ですね。
被害男性の財布が無いとはいえ、それだけが目的で手足を縛って首を絞めて殺害までするというのは何か揉め事でもあったのでしょうか。
警察は捜査本部を設置し素行の悪い者をリスト化し片端からあたりました。
同年10月10日男性S(20)は知人のズボンを1本盗んだ容疑で別件逮捕されました。
同年10月16日男性T(21)暴行容疑で別件逮捕されました。
Sが知人のズボンを1本盗んで逮捕されたのは、借りたズボンを売りに出したという事らしいのですが、それで警察に逮捕とは窃盗ではありますが大ごとですね。
Tは喧嘩など揉め事の多い人物でした。
別件逮捕された2人は当初、事件と関係ないように思われました。なぜなら被害者の自宅からSとTの指紋は見つからなかった上、事件と関係する客観的事実もなかったからです。
しかし検察はSとTの自白と事件のあった日2人を現場で見たという目撃証言で立証し、
これを受けて水戸地裁は自白調書を重視し2人に無期懲役を言い渡しました。
刑が確定しましたが無罪を訴え続け、1996年仮釈放となった2人はSさん49歳、Tさん50歳となっていました。
これだけの長い年数無罪を訴え続けたという事はやはり無実の罪だったのでしょう。
本当に人を殺めてしまった犯人ならここまで長期間無実を訴え続けられないハズです。
やはり警察による冤罪事件だったと思われます。
布川事件の真犯人は誰?事件の真相や未解決の理由とは
SさんとTさんが冤罪ならいったい真犯人は誰なのでしょうか? 更に事件を深堀していきましょう。
なぜ冤罪事件となってしまったのか
事件から44年後刑期を終えてから無罪となったSさんとTさんですが、この2人が無罪という事は冤罪だったという事になります。
では何故2人は無実なのに犯人とされてしまったのでしょうか。
そこには警察や検察による無理矢理な立証があったのです。
無理矢理な立証
・盗まれた物が分かっていない
この事件は強盗殺人事件とされていますが何を盗まれたか分かっていない事。
被害者の財布が無いとされていますが供述調書では財布について二転三転し、結果この財布については曖昧なままです。
・SさんとTさんの指紋無し
現場からは43点の指紋が発見されていますが、SさんとTさんの指紋はありませんでした。
・自白を強要
後にもSさんが訴えていますが朝9時から夜中12時まで連日お前がやった、白状しろ、などと連日言われ続け苦しさの上、自白してしまった。
・殺害方法が違う
無理矢理自白させられた事もあり殺害方法や物証が自白と違うのです。
自白内容では被害者男性の家に入り両手で首を絞めたと言わされましたが、実際はパンツ首を絞められており、部屋も素手で物色したと自白で言わされましたが、指紋は発見されていません。
確かにここまで見るとよくこの状況で有罪に持っていったと思います。
自白だけで物証が無く犯人と断定するには無理があります。
では何故やってもいない自白をしたのでしょうか。
Sさんの証言から警察側の取り調べをまとめました。
警察の取り調べ
拘束中は接見禁止令が出ていた為家族にも会えなかったそうです。
それを踏まえて見ていきます。
・事件当日Sさんの行動を伝えても却下
10月10日逮捕され8月30日の事件当日何をしていたか聞かれたSさんは、40日も前のある1日の行動を急に聞かれ、何をしていたかすぐに思い出せなかったそうです。
後に当日茨城県ではなく東京の高田馬場駅の居酒屋で飲んで中野にある兄のバーに行った事を徐々に思い出し警察に伝えたのですが、担当刑事に「兄は来てないと言っている」と言われ、Sさんが直接兄に確認する事もできず、自分の記憶が間違っていると自信を無くしたそうです。
・母親が早く罪を認めて自白するよう言っていると言われた。
実際に母親がそんな事を言ったのか拘束中確認もできずその言葉がきつかったそうです。
・目撃者がいると言われた
事件当日現場でSさんとTさんを被害者宅で目撃した人がいると言われたそうです。
当時SさんTさんは被害者男性とご近所で顔は知っていました。連日厳しい取り調べに加え目撃証言があると聞き、事件の日現場の近所を通ったかもしれないと思い、日に日に自分の記憶に自信がなくなったそうです。
・ポリグラフ検査をされた
ポリグラフ検査(嘘発見機)を受ける事になりSさんはこれで自分が犯人じゃないことが証明できると思ったそうですが。結果「すべて嘘と出た、本当の事を話せ」と言われ、更に「否定していれば死刑もある」などと言われ死刑は嫌だと追い込まれていったそうです。
ちなみにこの検査結果の書類はSさんに見せられなかったそうです。
この時の状況を後日Sさんは「毎日相当きつかった、経験してみないとこのきつさは分からない」と言っています。
後に発覚したこと
無実を訴え続け弁護士団は警察の立証に怪しい点があるとして調べた結果、次々とおかしな点が発覚していきました。
・取り調べ中の録音テープ
連日の厳しい取り調べ内容は録音されていたのですが、専門家がその録音テープを検証すると11ケ所も切り取られていた事が判明しました。
録音中Sさんの証言が調書と合わないと録音を止めて調書と合う事を言うようテープを取り直ししていたそうです。
・目撃証言の曖昧さ
事件当時SさんとTさんを現場で目撃したという目撃者は、よく話を聞くと彼らを見た日が事件の日だったかは断定できないと言ったそうです。
警察により彼らを見たのは事件の日だとされたのでした。
・Sさんらの供述調書隠蔽
Sさんらが事件当日の行動などが記載されたアリバイ供述や証拠テープ、目撃供述、毛髪鑑定、死体検案書など警察、検察により154にも及ぶ調書の隠蔽が後に発覚しました。
警察と検察によるSさん、Tさんを犯人に仕立て上げる為に不利な証拠の隠蔽は酷いですね。警察や検察が20歳や21歳の青年をここまで犯人に持って行くとは本当に恐ろしい事です。
今なら供述通りの行動かどうかICカードの利用履歴や防犯カメラなど客観的に証拠が出せますが1967年当時はそういう事が証明できませんでした。
なぜ未解決なのか?その理由や原因とは
結局冤罪事件だったという事は真犯人は別にいるという事になります。
警察は冤罪に加えて真犯人である殺人犯を取り逃がしたという事になります。
しかも時効撤廃前の事件なので、仮に今犯人が判明しても時効が成立しますので逮捕できません。
よって残念ながらこの事件は今後も未解決のまま歴史に残っていく事になるでしょう。
犯人象や真犯人の有力な説とは
初めから2人を犯人だとして警察が動いた為、2人が冤罪だと判明した頃には真犯人説などの有力説は出ていないようです。
桜井さんらが無罪を訴えるうちに警察の隠蔽が明らかになっていく中で、隠蔽していた情報が段ボール9箱分も出てきました。
実はその中に真犯人についての記載もあったそうです。
それが誰なのかは世に出ていませんが事件から50年以上経った今、真犯人は既に亡くなっている可能性もあります。
私が考えるに、被害男性は金貸しをしていたので、金を返せなくなった人物が被害男性を殺害し、部屋から借用書を持ち去って借金をチャラにしようとしたのではないでしょうか。
警察はもちろん金がらみの人物を調べているのでしょうが、逮捕できない人物だったという事でもあったのでしょうか。(警察内部の人物など)
解決への糸口となるポイントとは?
これまで触れたように犯人が判明しても時効成立している事と、事件から時間が経過し過ぎている為真犯人にたどり着くのは厳しいと思われます。
2人が無罪判決後、Sさんは様々なところでこの事件を語っていますが、警察からの謝罪はないと言っています。その謝罪をもってある意味で解決と言えるのかもしれません。
ただ、犯人のみならず担当刑事なども既に亡くなっている可能性がありますので警察側からの謝罪があればと願います。
布川事件の桜井昌司と杉山卓男のその後とは?
桜井昌司と杉山卓男とはどんな人物なのか
冤罪となったSさんは桜井昌司さん、Tさんは杉山卓男さんです。
桜井昌司さんは高校中退し定職につかず今で言うニート生活を送っていましたが、友人のズボン1本盗んだ窃盗容疑で逮捕されてから本事件で有罪となり冤罪で服役する事となりました。
杉山卓男さんは桜井さんのお兄さんの友人で、母子家庭でした。高校生時代無免許運転で退学となり機械工の職に就いていました。その後、母親も亡くなったことから生活が荒れ、19歳で乱闘騒ぎ、暴力団とも関わり恐喝や喧嘩の絶えない日々を送っていました。
本事件の直前の別件逮捕も暴力事件で、この後本事件で有罪とされてしまい冤罪で服役する事となりました。
桜井さん杉山さんとも素行が良くなかった為、警察に目をつけられたものと思われます。
素行が悪いからと言って、やってもいない殺人犯にされてしまうとは恐ろしい事ですね。
桜井昌司と杉山卓男のその後とは?
桜井昌司さんは仮釈放中に支援者の女性と結婚されました。
現在は冤罪を訴える活動や警察の取り調べの可視化に対する活動に取り組まれています。
冤罪により刑事補償で1億3000万円受け取りましたが、20歳から服役していた為年金を納めていないため、年金は受給していません。
桜井さんは服役中に両親とも亡くしており、親の死に目に会えませんでした。
杉山卓男さんも結婚されましたが2015年69歳で亡くなりました。
無罪判決から4年後でした。
杉山さんは69年間の人生で、21歳までの時間と無罪後の4年の合計25年しか普通の生活はできなかったという事ですね。無罪から4年後の死去なので刑事補償で1億以上受け取ってもそれすらも使えなかったのは無念です。
担当刑事は誰だったのか?その後とは
当時桜井さんがズボンを盗んだ罪で別件逮捕から関わっていたのが捜査一課の早瀬刑事、鑑識は二瓶さんという方でした。
連日の取り調べで早瀬さんが桜井さんを息子と同じような年齢だと口にしていたのと桜井さんの記憶で当時50代位の刑事だったと言っているので事件から55年経った現在は亡くなっているでしょう。
事件後2019年には裁判員裁判対象事件などの取り調べで録音や録画の可視化が義務化されました。
この事件後も日本では冤罪事件が後を絶えません。
このような冤罪被害者が今後出ない事を願います。
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