大分一家6人殺傷事件の犯人の現在や被害者遺族の今とは?

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大分で起こった残虐な一家殺傷事件。

犯人の短絡的な動機について、家庭環境や集落の特性に焦点が当たりました。

犯人の動機から、犯人と被害者遺族の現在について、深く調査していきます。

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大分一家6人殺傷事件の概要!現場の住所や犯行の手口とは?

大分一家6人殺傷事件はいつ起きた?時代背景とは

2000年8月14日午前2時50分頃に、事件は起こりました。2018年には、隣の宮崎県で「高千穂一家6人殺人事件」がありました。

深夜の犯行から、加害者の計画的犯行が伺えます。

大分一家6人殺傷事件の現場の住所はどこ?

現場は、大分県大野郡野津町都原にあった被害者宅です。大野郡は、現在は臼杵市となっています。

大分市内から南に約20キロ離れた田園地帯で、ほとんどが農家の場所です。

そんな中にあった木造二階建ての家が事件現場となりました。

人口の少ない田舎町で起きた犯行、目撃者がいなかったことも納得がいきます。

大分一家6人殺傷事件の概要!犯行の手口とは?

事件当日、加害者は被害者宅の用器具用の小屋に隠れ、一家が寝静まるまで待ったそうです。

午前2時になると、野外に置いてあった被害者宅の脚立を使用して、風呂場の窓を金槌で叩き割り母屋に侵入しました。

家の中の階段を使って離れに直行して、サバイバルナイフで長男を何度も刺しました。

母親と長女も指した後、母屋に戻り祖父母を刺しました。帰り際に、逃げた次男を発見して刺したそうです。

祖父に抵抗されて加害者も軽い傷を負いましたが、被害者宅の電話線を引きちぎった後、混合油が入ったポリタンクとライターを自宅の倉庫に取りに行きました。

被害者宅に戻ってきた加害者は、玄関前に混合油を撒き、ライターで火をつけた後に自宅に帰りました。加害者の付けた火は玄関の一部を燃やしたのみで、時を置かずに消えました。

事件の発覚と犯人の逮捕

同日午前2時52分に、被害者一家の中では1番被害が軽かったとはいえ、背中を切り付けられて重体だった長女が携帯電話で助けを求めたため、警察と救急が出動して祖父、長女、次男の3名の命が助かりました。

同日午前4時過ぎ、警察の捜査員が加害者の自宅に行き、「出かけていたか」と質問したそうです。

人違いではないかと捜査員が感じるほど落ち着いた様子で、「家におったよ」と加害者は答えました。

任意同行が求められ、パトカーに乗った少年が「ぼくがやりました」と犯行を認めたため、殺人や殺人未遂の容疑などにより、同日午前6時過ぎに緊急逮捕されました。

深夜にサバイバルナイフで襲ってこられるなんて、被害者はどんなに怖い思いをしたことでしょう。

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大分一家6人殺傷事件の犯人は誰?加害者の実名や顔から動機とは

大分一家6人殺傷事件の犯人は誰?加害者の実名や顔とは?

加害者は、事件当時15歳でしたので実名や顔などの報道はでていませんでした。

しかしネット上では少年院での名前が中野公雄、実名は井上啓二だという情報が出回っていました。

そんな犯人の少年ですが、その生い立ちについて調べてみると。

両親、祖母、兄の5人家族でした。父親は廃棄物の処理会社、母親はタクシー会社、兄は建設会社に勤めていました。

以前は祖母も一緒に暮らしていましたが、事件当時は福祉施設に入所していたそうです。


加害者は、「父親を怒らせると家にいられなくなる」と認識していました。

父親は感情の起伏が非常に激しく、家族を怒鳴り散らしたり蹴り飛ばすことも多かったようです。

父親は会社で飼っている猫を乱暴に扱っていたそうですが、加害者も小動物の虐待をしていたそうです。

また、母親は加害者が3~4歳の頃に職場で親しくなった男性と同居していたため、家にいませんでした。

父親はダンプの運転手だったため不在の日も多く、加害者は幼少の頃は孤独な時間が多かったようです。

気分で暴力を振るう父親と、子どもを置いて家出する母親と暮らしていた加害者は、寂しい思いも多かったのだと思います。

犯人の動機は何だったのか

事件が起きたのは24戸の小さな集落であり、住民は家族のように親密でした。

悪い噂が1度でも立ってしまうと生活がしにくくなる集落で、少年は小さな罪の口封じのために被害者一家を殺傷しました。

加害者により被害者宅の下着が頻繁に盗まれるようになり、家の前や周辺に、ポルノ雑誌や盗難物が置かれるようになったため、被害者宅では夜間の戸締りを厳重にするなど防犯対策をしていました。

そのため、加害者が普段下着を盗む際に使用していた風呂場の窓も締められてしまいました。

8月2日の深夜、窓が締まりきらないような細工をしようとしていた加害者は、被害者宅の家主に見つかってしまったそうです。

顔を見られた少年は、使用していた脚立を残したまま逃げ去りました。

事件発生の1週間前から疑惑が浮上

事件発生の1週間前である8月6日に、被害者宅の家主は加害者の自宅に行き、加害者の母親に「あんたんとこの息子が風呂場をのぞいちょる」と、覗きをやめるように苦情を言いました。

母親は、加害者を注意したそうです。事件発生の前日である8月13日にも、家主は加害者の母親に苦情を伝えています。

下着泥棒は事実であっても、のぞきは濡れ衣だったようで、母親からは「風呂場をのぞいたんやなかろうね」と疑われ、

父親からは「1番先に疑われるから気を付けろ」と注意され、加害者は腹が立ったそうです。

被害者一家と加害者一家の関係

8月6日の苦情以降、被害者一家は加害者の挨拶を無視するようになりました。

加害者が被害者一家を睨み付けたため、被害者一家も加害者を睨み返したそうです。

そのため加害者の被害者一家に対する憎悪は増していきました。

加害者はその頃から、

「被害者家族に濡れ衣を着せられた」

「被害者家族を全員殺してやろうと考えた」

と供述しています。

「のぞきや下着泥棒が知られるのが怖かった」
「女の子や近所の住民から白い目で見られると集落にいられなくなる」
「父親を怒らせると家にいられなくなる」

という恐怖心を加害者にはあったようです。

下着泥棒は加害者の犯行であるため、そのことを棚にあげてのぞきばかり濡れ衣だと主張するのはどうかと疑問に思います。

また、集落の住みづらさが、加害者の犯行を後押ししてしまったのではないかと思われます。

犯人に下された判決とは

この事件は、少年法が改正される直前に起きたため、加害者は刑事責任を問われませんでした。

当時の少年法では「16歳以上」は成人と同じ刑事裁判を受けますが、加害者は犯行当時15歳だったため、家庭裁判所で審判が進められたそうです。

2000年9月、「少年院への送致が相当」と大分地方検察庁が意見書を出し、大分家庭裁判所で「観護措置」と決定して、大分少年鑑別所に加害者は収容されました。

12月の最終審判では、保護処分が言い渡されました。

保護処分は

「一から立て直すように未熟な自我の発達を促し、命の尊さを教えることが社会に適応するために不可欠」「重症の小児期発症型行為障害なため、専門的な治療と教育を長期間行う必要がある」

との内容だったそうです。

加害者は、重症の小児期発症型行為障害であったため、2001年10月に医療的な処置が終わり、関東地方にある特別少年院へ移送されました。

遺族は訴訟を起こすが

2001年に遺族は訴訟を起こし賠償金などを求めましたが、経済的な事情により和解できないまま訴訟は却下されました。

遺族は民事訴訟での和解を目指し、2003年に加害者の両親と遺族による和解が成立しました。

「犯人が35歳になるまで住所と職業を遺族に伝えること(半年に1度)」
「反省状況を遺族に伝えること(半年に1度)」
「賠償金を毎月6万円支払うこと(総額2億4千万円になるまで)」

という条件での和解だったそうです。

こんなに残虐で3人も殺害する事件を起こしておいて、少年院の送致と賠償金で済まされることに納得がいかないですし、遺族の無念を思うとやり切れません。

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大分一家6人殺傷事件の被害者は誰?実名や顔から遺族の現在とは

大分一家6人殺傷事件の被害者は誰?実名や顔は

被害者一家の実名については、岩崎さん一家であることが報じられていました。

祖父の岩崎萬正さん(当時65歳)、祖母の澄子さん(当時66歳)、母親の智子さん(当時41歳)、長女の舞さん(当時16歳)、長男の潤也君(当時13歳)、次男の誠也
君(当時11歳)の3世代家族でした。

被害者一家と加害者一家は隣同士であり、被害者宅の家主とかの父親は釣り仲間だったため、被害者宅の家主が苦情を言いに来た、事件の1週間前までは両家の交友関係も良好でした。

加害者は小学生の頃は長女と仲が良く、一緒に登校していました。

中学生の頃は長男と仲が良く、同じ部活動の先輩と後輩の間柄でした。次男とは、事件の1週間前まで一緒に遊んでいたほど仲良しでした。

こんなに仲の良い家族を、どうして殺傷や殺害できてしまうのか、不思議でなりません。

被害者遺族の現在とは

生き残った遺族の精神的なショックは大きく、「知らない人が怖い」という状態になってしまいました。

しばらくの間、病室から出られず、病室を出られるようになった後も「人の多い売店には行けない」など、日常生活を送れる状態になるまで時間がかかりました。

祖父は加害者に抵抗した際に、素手でサバイバルナイフの刃を掴んだため、指の関節部の肉や骨がえぐられ、指先が皮一枚で繋がっている状態で病院に搬送されました。

加害者に頬を刺され、ナイフの尖端部が頬を抜けて脳に達していました。

脳が傷付いてしまったことにより、意思の疎通も困難な寝たきりの状態になり、その後の回復の見込みはないようです。

加害者に胸を刺された次男は、刺し傷が心臓から逸れていたため、生き残ることができました。

救急搬送された次男は、10時間にも及ぶ手術に耐え抜き、死線をくぐり抜けました。

その後は、学校へ通学することや楽しく運動することが可能な程、体は回復したそうです。

次男は、事件当日の光景を思い出し、言葉遣いや動作が退行する時期がありましたが、カウンセリングを受け家族に支えられながら、少しずつ克服していきました。

長女は後遺症により車いす生活に

長女は、加害者に背中を深く切りつけられました。

命は取り留めましたが体には後遺症が残ってしまったため、車椅子生活となりました。

その後は家族の助けを借り、大学へ進学しました。酷い精神状態で苦難続きでしたが、一生懸命生活しているそうです。

事件が起きた頃、実の父親は離婚していたため、一家と一緒に暮らしていませんでした。

すでに別の家族もいました。事件を知った父親は、すぐに実子を引き取ろうと決心しましたが、現在の家族に切り出せずにいました。

現在の妻から「お父さんが引き取らんでどうするん」と切り出され、長女と次男を引き取ることになったそうです。

遺族や被害者により支援センターが設立

遺族や被害者支援に関わった人達によって、事件が起きた3年後の2003年に、大分被害者支援センターが設立しました。

生き残った長女と次男と父親は、センターを長男が生きた証と捉え、設立した当初からボランティアとして被害者支援に携わってします。

 

遺族は「詳細な動機を知りたい」と願っているそうですが、事件の審理は家庭裁判所による非公開審理だったため、詳細な動機は公になりませんでした。

何も伝わらない状態のままで、遺族の心の傷は癒えるはずもなく、何も解明されない状況のままです。

2019年には、父親は「犯人は刑事責任を負うべきだった」と語っています。

この事件は、被害者遺族の体にも心にも大きな傷を残しました。また、和解時の条件さえ行えていない加害者が、反省しているとは到底思えません。家庭裁判所による非公開審理だったからといって、被害者遺族にも詳細が伝えられていない現状にも、疑問しか残りません。

 

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大分一家6人殺傷事件の犯人の現在やその後

逮捕直後は反省の言葉を述べていた被害者ですが、少年院を出所して社会人になっています。

少年院出所後は、連絡は途絶えてしまいました。犯人の両親からの報告は定期的に遺族に届いていますが、加害者の住所や職業は書かれていないため、和解の条件は守られていないそうです。

大分一家6人殺傷事件の犯人の現在の暮らしとは

加害者の現在の状況は不明となっております。生きているならば、現在36歳になっており、現状報告が必要でなくかる35歳を過ぎています。

被害者や遺族のためにも、反省して償って生きていくことが、唯一できることだと思います。

今からでも自分したことを振り返って、被害者への祈りや遺族への謝罪を一生しながら生きていってほしいと思います。

大分一家6人殺傷事件のその後に変わったこと

YouTuberのワタナベマホトさんの従兄が、加害者と同級生だったそうで、その動画を流しました。

しかし、子どもの頃に軽く話を聞いただけであったため、電話で詳細を確認すると、従兄のところにWikipediaの情報がメールで届いただけだったようです。

YouTuberは影響力があるので、誤った情報や不確定な情報を流すのは、避けてほしいものです。

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